僕の回想

2年前の地震、津波、そして原子力発電所の事故という3つの惨事は東北に住む何千人もの人々の人生を大きく変えた。

そして僕の人生も。

でも、すぐにではなく。僕が東北を訪れたのは災害から3か月たってからのことだから。今でもバスで現地に向かったとても長い道のりのことを覚えている。前もって計画していた旅ではなかったから、資金面のことがちょっと心配だったけど、また大阪に戻った時に英語レッスンのクラスをいくつか多く引き受けさえすれば、かかった費用を穴埋めできるだろうと思っていた。

でも実際にはその通りにはいかず、かかった費用も取り戻せなかった。でもその代り、僕にとってはそれ以上に価値のある経験を得ることができた。

はっきり言って被災地に行ったことがない人がここの状況を理解することはできない。また、被災地を訪れたぐらいではここに住むというがどういうことなのか理解するのは難しい。でも、今ここに住んでいる自分にとってですら、震災当時この場所で実際に何が起きたのか、完全には理解できないだろう。

被災体験を語るってことは、すごく難しいことだと思う。被災者の中には自分の経験を自らすすんで話してくれる人たちもたくさんいるけど、僕の方からそうしたことについて尋ねたことは一度もない。だって僕にとっては、その人にとって人生最悪の日であったであろう体験について興味本位で質問するなんて、デリカシーがないと思うから。

それでも、さまざまな被災経験についての話は聞いてきた。そして正直言って、それはとても恐ろしいものだった。

大阪でテレビを通じて津波の様子を見た時は、人ごとっていう感じであまり実感がわかなかった。悲惨なことが起きたと頭では理解していたけど、その時は自分に関わりがあるようには感じられなかったから。

でも、実際に津波を経験した人から水がすごい勢いで家の中に流れ込んできた様子や、今でも残る浸水の水跡を見せられたりしたら? それは本当にリアルで恐ろしくて・・・。

多くの人たちにとって今日は追悼の日だ。おそらく何百万人もの人たちが2年前の大災害について回想し、追悼する時間を持ったと思う。でも、ここ石巻では追悼式がいくつか行われていた傍らで、ビジネスも平常通りだった。人々はいつもと同じように動き回っていた。そしてそれがまさにこの投稿のポイントだ。

行動を起こす。

この機会を利用して、僕は追悼の意を捧げるだけでなく、行動を起こした人たちにお礼を言いたい。

さっとグーグルでチェックしたら、「行動」についてこんな定義が見つかった。

行動 ― あることを目的として、実際に何かを行う、あるいはそのプロセスのこと。

東北に来て泥だらけになることだけが「行動」をとる、ということではない。実際に現地に来れなくても、募金集めや寄付をしたり、人々の被災地に対する認識を高めたりするなど、さまざまな形でみんながしてくれたことが大きく役立っているんだ。

それはINJMに係わったことだけではない。 それ以外にも何百万人もの人たちが行動を起こした結果だ。

僕は君を知らないし、おそらくこれから会うこともないかもしれない。。それに君がどんなことを被災地のためにしたのかもわからない。それでも、ぼくは感謝している。なぜなら、君のの起こした行動がどんな結果を生み出したのかを僕は見てきたから。

そして、サポートなしで、ほかの人たちを手助けするのがどんなに大変なことか、僕自身も経験してよくわかっている。

数日前、チョコの車がヘンな音を出し始めた。たぶんファンベルトがすべっているのが原因だと僕にはすぐにわかった。なぜなら、INJMにとって、ものすごく長い間ボランティア搬送用の一番大きな車だった4人乗りの赤い軽自動車も常に同じ問題を抱えていたからだ。しかもそれは毎日、大勢のボランティアたちがいた時期のことで、僕たちは頭を悩ませていた。だから充分なお金が貯まって8人乗りの車を買えた時は本当にうれしかった。これもそういった“行動”を起こしてくれた人たちのサポートがあったからこそできたこと。

もちろん、僕の視点はボランティアとしての立場からのもの。僕たちが受けるサポートは、僕たちがほかの人たちを助けるのを可能にしてくれる。実際に被災した人たちが受けた支援とは少し違った意味合いがあるけれど。

でもそうした経験を分かちあうことは大切だと僕は感じている。なぜなら、僕たち(ボランティア)は恵まれた立場だから。僕たちは直接感謝され、心のこもった言葉をもらい、そしてここでしか作れない素晴らしい思い出を得ることができる。

でもそれは、君のサポートなしではできないことだから。

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